山奥に確かにいる。
懐かしい旅館にいるような感覚。
でも、目を開けるといつもの車の中。
カーテンを少し開けて外を見ると、新築の民家が並んでいる。
道の駅子守唄の里 五木の朝は、不思議な気配が漂っている。
6時に起き出した。
道の駅五木の周りをパセ&ポプと散歩する。
道の駅の脇には、あの「五木の子守唄」のモニュメントが建っていた。
♪おどま盆ぎり盆ぎり
盆から先きゃおらんと
盆が早よ来りゃ 早よもどる♪
(子守奉公も盆で年季が明け 恋しい父母がいる古里に帰れる日が待ち遠しい。)
♪おどまくゎんじんくゎんじん
あん人たちゃ良か衆
良か衆 良か帯 良か着物♪
※配布されていたものに書かれていた意味をカッコ内に掲載してみました。でも意味がよく理解できる訳は熊本の方言に書かれているものだと思います。
おどま=わたし、自分 くゎんじん=勧進、寄進を求めて物乞いをする人たちのようなもの 良か衆=良い人、お金持ち
『正調「五木の子守唄」』
いまどき珍しくなった藁半紙のような紙に印刷されて配布用に置かれていた。譜面も書かれていたけれど、これはどうしたらいいのか。おたまじゃくしではなく、かえるのたまごのような譜面で休符もなかった。
もちろんこれまで聞いたことがあるし、口ずさむこともできるけれど、この意味を考えたことなどなかった。
子守唄と言えば、子どもを寝かしつけるときに歌うものとおもっていたけれど、この子守唄は子守をしている子どもがその気持ちを歌った守り子唄だそうだ。
どれが元唄かもわからず、歌詞もいろいろ。
即興で歌われていたものと言われている。
プリントに書かれている唄は、70近くもあり、どれも子守の辛さや、親に会いたい、階級の差への哀しみなどばかりだ。
背景と意味を知ると胸が締め付けられるようだし、知らずに口ずさんでいたことに恥ずかしくなった。
移築して保存している茅葺き古民家があった。見学は自由。
昔々は、畳なんてなかったから木の床で、寒くてどんどん着込んで行って十二単になったと聞いたことがある。畳が発明されてからも、貧しいと買えずにフローリングだったのだろう。保存されている茅葺きの家は手前が囲炉裏のある木の床で、奥の間は畳が敷かれていた。いつの時代のものとして移築したのかわからないが、入り口にはその時代のレインウエア蓑と笠が掛かっていて、木の床の部屋の片隅には糸を紡ぐための割りと大きな糸車が置かれている。道具はほとんどなくあまりにも整然と整理されているので暮らしていただろう人の面影が見えない。よくリアルに見せようという試みか、変な人形が置かれていることがあるけれど、あれは気味が悪い。でもせめて何年に建てられて、いつまで使っていたかとか、どんな生活をしていたか、という説明書きは欲しかった。
それにしても、昔は今と比べてずいぶんたくさんの人たちが暮らしていたらしい。
1960年は1290世帯6161人、そして2000年は582世帯1530人。それから10年近く経っている今。道の駅の後ろ、川を見下ろす高台の一角には新しく立派な家が立ち並んでいる。
川辺川のダムで移転して来た民家なのかもしれない。
公共施設も場違いなほどに立派なものが建っている。
わたしでも知っている問題になっていた川辺川ダム計画。神社の脇に沿革が書かれていた。水没予定地にあった神社の3つが合祀させたものだそうだ。
平日だというのに人の姿もほとんど見かけず、静かな朝だった。綺麗に舗装された道路と民家の間には50cmほどの幅で水路があり、綺麗な水が流れている。
現在滞っているはずの川辺川ダム計画なのに、この新しいように見える移転はどうしてなのだろう。
パセ&ポプの朝ごはんは冷凍ごはんを温めた。南に移動するにつれて温度が上がってきているので、冷凍ごはんはそろそろ食べてしまった方がいい。最後の冷凍ごはんを夜の分として温め、ランチジャグに入れた。
モスキートカーテンのワイヤーがずれ落ちてきていたので調節する。これでしっかり固定できたはず。でも、このカーテンの活躍するときはまだ来ていない。
昨日、お風呂で会った人たちの車はすでに出発していた。
同じ上段の駐車場に泊まっていた車では、車外でシュラフをぱんぱんと叩いて、出発の準備をしているらしい。
8時、道の駅を後にして、川辺川沿いを南下する。
遥か下の谷間に見える場所ではドラックやダンプが工事をしている。通る車も工事車両が多い。
橋の上で急いでいるらしい犬さんとすれ違う。
出勤でもするのか、脇目もふらず、こちらの車のことなんて構いもせず、マイペースですたすたすたと橋を渡ってゆく。
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